教えのやさしい解説

大白法 480号
 
自行化他(じぎょうけた)
 「自行化他」とは、『法華文句(ほっけもんぐ)』に「自修(じしゅう)報恩を自行と名づく。彼を益(やく)するは即ち化他なり」とあるように、基本的には、「自行」とは自身が仏道を成就(じょうじゅ)するための修行をいい、「化他」とは他者(たしゃ)を教化(きょうけ)することをいいます。
 「自行化他」とは、大乗の菩薩の初発心時(しょほっしんじ)の誓願(せいがん)を示すものです。それは上求菩提(じょうぐぼだい)・下化(げけ)衆生といって、上に向かっては自ら菩提を求めて修行に精進し、下に向かっては利他(りた)のために無量の衆生を教化し済度(さいど)するという菩薩の誓願です。具体的には、四弘(しぐ)誓願として示されます。四弘誓願とは、一に衆生無辺(むへん)誓願度(ど)(一切衆生を救済する願(ねがい))、二に煩悩無数(むしゅ)誓願断(だん)(無数の煩悩を断ずる願)、三に法門無尽(むじん)誓願知(ち)(無量の法門を学んでいく願)、四に仏道無上(むじょう)誓願成(じょう)(無上菩提を成就する願)をいい、この中の第一に衆生無辺誓願度という化他の誓願が立てられているところに、大乗の大乗たる所以(ゆえん)があるといえましょう。
 さて「自行化他」には、右のような衆生の菩薩行についていうことのほかに、「本地(ほんち)自行の仏」「垂迹(すいじゃく)化他の仏」と仏身(ぶっしん)に約(やく)す場合があります。
 「本地自行の仏」とは、寿量品の文底(もんてい)に秘沈(ひちん)された久遠元初(がんじょ)本因(ほんにん)下種の本仏で、凡夫即極(そくごく)・人法一箇(にんぽういっか)の当体(とうたい)たる日蓮大聖人です。この時は、ただ本因下種の妙法の一法(いっぽう)のみで、余教(よきょう)・余行(よぎょう)は全(まった)くありません。
 これに対し「垂迹(すいじゃく)化他の仏」とは、文上(もんじょう)寿量品以下(いか)の経説(きょうせつ)の仏であり、久遠元初より垂迹し、色相荘厳(しきそうしょうごん)の身をもって衆生を教化(きょうけ)する熟脱(じゅくだつ)の迹仏(しゃくぶつ)です。久遠本果(ほんが)よりインド応誕(おうたん)までの釈尊、また諸経に説かれる三世十方(さんぜじっぽう)の諸仏は、全(すべ)て久遠元初本因下種の仏法より退転(たいてん)し、流転(るてん)した衆生を救済するために垂迹したのです。そして、四教(しきょう)八教を説いて衆生を誘引(ゆういん)化導し、最後に法華経本門寿量品を説いて得脱(とくだつ)せしめたのです。
 このように、「自行化他」には仏身に約す場合もありますが、基本的には衆生の菩薩行に約します。そこで、大聖人が教示(きょうじ)された末法の修行方規(ほうき)たる「自行化他」について拝しましょう。それは『三大秘法抄』に説かれた正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)の題目と末法の題目の二意です。
 正法・像法の題目とは、龍樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)・天台・伝教(でんぎょう)等の唱えた自行の題目です。彼ら迹化(しゃっけ)の菩薩には、文底下種の付嘱(ふぞく)がなく、時も機も整(ととの)わないために、文上理行(りぎょう)の題目をただ自行でしか唱えることができなかったのです。
 これに対し、末法の日蓮大聖人は、
 「末法に入(い)って今(いま)日蓮が唱(とな)ふる所の題目は前代(ぜんだい)に異(こと)なり、自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」(平成御書一五九四)
と仰せです。すなわち、大聖人には本因妙の付嘱と時機が整っていますから、文底下種の御本尊に具(そな)わる事行の南無妙法蓮華経を、自(みずか)らも唱え、他(た)に向かっても下種折伏して弘通(ぐずう)教化されたのです。
 私たちは、その弟子檀那として、大聖人の死身弘法(ししんぐほう)・不惜(ふしゃく)身命のお振舞いを我が身に体(たい)し、自行化他の題目を唱えて、折伏・再折伏に邁進(まいしん)していきましょう。